私の詳しいこれまでの経歴です。
めちゃくちゃ長いので、興味がない方はスルーしてください^^;
私は1991年、関西に生まれ4人兄弟の3番目(次女)として育ちました。
両親と兄弟達に加えて父方の祖父母も同居しており、8人のちょっとした大家族でした。
父は地方銀行員、母は専業主婦。
子供の頃の私というと、とにかく内気で引っ込み思案な子供でした。
家族と数少ない友達以外とはとにかく話すのが苦手で、
当然学校での発表会なんかはもう地獄です。
集団の中で注目が集まる中話さなければならない場面では無言のまま固まってしまい、
家に知らない人が来ても挨拶もできないレベルの内気さでした。
こういう内気な性格は往々にしていじめに遭いやすいですが、
私も例に漏れず子供のころからいじめられっ子でした。
何をされても、何を言われても言い返すこともやり返すこともできない気の弱い性格です。
私の場合はそこまで過激ないじめに遭ったわけではなく、
基本的には陰口・悪口・無視という感じでした。
それでもすべて内に抱え込んでしまう性格の私にはダメージを与えるには十分で、
人と上手く関わることができないためにこの頃から大人になってからも長い間苦しみました。
学校に行くのが苦痛でしかなかった私は毎朝
「おなかが痛い」と言っては学校を休むようになり、
次第に学校に行かなくなった私は当然のように不登校になりました。
一切学校に行かない時期もありましたが、
途中からは通常の授業に行くことはないものの、いわゆる保健室登校をしていました。
それでもとにかく話すのが苦手な私は保健室の先生相手でもまともに話すことができず、
目の前にいるのに筆談したりしていました^^;。
一日保健室で過ごし、給食も保健室で食べて、ひとりで帰る。
保健室に他の子が来ると怖くてビクビクしていました。
しばらくの間はそんな日々を過ごしていましたが、
地域の不登校児を支援する施設に行くようになり、
結果そこの職員に強制的にクラスに戻されることになります。
周りのクラスメイトは若干不自然なくらいに私に親しげに接するようになり、
半ば腫れ物に触るようでもありました。
ただそれは表向き先生がいる時だけで、
陰では以前と同じように悪口を言っているのを聞いていたので、
私は相変わらず心を閉ざしたままでした。
この頃から私は所謂“対人恐怖症”を発症しており、
人が怖いと思うようになっていました。
小学校を卒業後、私はそのまま地元の中学に進学。
気持ちを新たにここからまたやり直そうと、新しい制服を来ていざ学校へ。
ところが入学して早々上級生や他校出身の生徒から目をつけられたのか、
初日にして自分の悪口や指をさされて笑われているのを聞いてしまい、
早々にここでもいじめられっ子になるフラグが立ちます。
私は何かと感じやすく傷つきやすい子供でした。
それに加えて意図せず悪目立ちしてしまうらしく、
これには大人になってからも悩まされ続けました。
入学して間もなくの林間学習が終わった頃のある日の夜のことです。
父が家族会議だと言ってリビングに家族を集めました。
家族が集まったところで口を開いた父が言ったのは、
「残念だが、この家にはもう住めなくなった」。
父のリストラでした。
まだまだローンの返済は残っていたものの、
それを支払うのは不可能になり持ち家は手放すことになったのです。
しかし当時まだ13歳の子供だった私にはあまり事の深刻さがわかっておらず、
あーそうなんだ、くらいの感想しか持っていませんでした。
後から知ったことですが父はこの頃ネズミ講に嵌り、
家の経済状況はかなり逼迫していたようです。
その後かつての持ち家の半分以下の大きさの借家に引っ越すことになり、
学校も転校することになりました。
しかし”転校生”という注目を集める立場に耐えられず、
また不登校児に逆戻りした私はほとんどの時間を家で過ごすことになります。
この頃から家族は徐々に崩壊し始めました。
というか本当はそれ以前から問題はあったのですが、
何とか表向きは”家族”という体を保ってはいました。
今でもはっきり覚えている出来事があります。
家を出なくてはならないと決まってからのある夜、
突如として父の書斎から父が大声で泣きわめいているのが聞こえてきました。
驚いた私は自室から父の書斎の前まで行くものの、
親のそんな様子をそれまで見たことがなかったため、かなり動揺してしまいました。
その時階下で母と兄が話すのが聞こえたのですが、
二人は「あの人また泣いてんの?」と半ば呆れたような、
嘲笑うような感じで冷たく言い放ったのを聞いた私はひどくショックを受けました。
もしかしたら大したことではないと思われるかもしれませんが、
家族なら大変な時こそ支え合うものではないのかと思っていた私は、
うちの家族には愛情や精神的な繋がりがないのだと感じました。
悲しいですがうちの家族は基本的に家族間の精神的な繋がりが希薄なのだと思います。
私は兄弟とは元々は仲が悪かったわけではなかったと思うのですが、
私は家計が苦しくなってもアルバイトすらせずにただ家でだらけいているだけの兄や姉を軽蔑するようになり、次第に口もきかなくなりました。
私には姉と兄がいますが、二人とも一度も職には就かず、
今でも実家で年老いた両親に養ってもらっているようです。
弟とは小さい頃は仲が良い方でしたが、いつからか弟は私に対して暴力的になり、
喧嘩していたわけでもないのに突然殴る蹴る、木刀や台所から持ち出した包丁を手に追い回されるような異様な関係になりました。
基本的に問題が起きても対処しない両親だったので、
これでもただの姉弟喧嘩に見えていたのかはわかりません。
上の兄姉と対立し、弟からは日常的に暴力や嫌がらせを受ける毎日。
彼らにとって私は共通の敵なので、次第に協力して私に嫌がらせをするようになりました。
そうして私は3人から虐められるようになり、両親からはひたすら無視され続けました。
うちの家族は基本的に、
お互いにほとんど関心がないようです。
両親とも兄弟ともうまくいかず、次第に私は家族の誰とも一切会話をしなくなりました。
心を許せる友達もおらず、完全な孤立状態です。
父はリストラ後は非正規雇用でコンビニや運送業の仕事を掛け持ちするも、
ストレスからか体調を崩して頻繁に病院に通い、
母は新聞配達とスーパーの鮮魚コーナーのパートをはじめました。
祖父母の年金を生活費に充てて、
それでも毎月の支払いは赤字で家計は火の車でした。
お金がないことによって心の余裕がなくなり、
いつも私の家の中は暗い雰囲気でした。
家族で出かけることも、家族そろって食事をすることもなくなり、
ただ同じ屋根の下で生活しているだけのただの他人同士のようになっていきました。
引っ越しと同時に転校したものの、私は再び不登校になります。
この頃の私は全く学校に行かなくなり、
家に籠ってひたすらラジオを聞くか、
図書館で借りた本を読むかで現実逃避の日々でした。
家にいる間は常にヘッドホンをしたまま現実世界をシャットダウンしようとしていましたが、ラジオがきっかけでジャズを知り自分もどうしてもピアノが弾きたくなり、
当時すでに13歳だった私は超遅めのスタートでピアノをはじめます。
しかし家にピアノはないし、そんなお金もない。
そこでスクールカウンセラーに相談して放課後に音楽室を貸してもらえることになりました。
授業には一切出ずに、放課後ピアノを触りに行くためだけに学校に行くようになりました。
とは言っても私にはクラッシックの基礎がなく、
それまでピアノを習ったこともなければまともに楽譜も読めませんでした。
後に読めるようにはなりましたが理解するのにとても時間がかかり、
克服しようと勉強しましたが苦手意識が消えないままでした^^;
クラッシックにはあまり興味がなかったものの特定の好きな曲だけ弾いたり、
その時の気分でただ好きに弾いたり、ジャズの有名な曲を何とか練習したりしていましたが、
基本的には自己満足の下手の横好きで好き勝手弾いているだけでした。
それでもピアノは私にとっては唯一の心の拠り所でした。
結局転校してから卒業まで、私は一度も授業には参加しませんでした。
自分のクラスメイトの顔と名前すら知りません。
文化祭も体育祭も修学旅行も一切参加したことはありません。
ただ先生方はそんな私にとても良くしてくれて、
無理に授業に行かせようとすることはありませんでした。
当時私を担当してくれていたスクールカウンセラーの方もとても私に良くして下さり、
家庭外では当時とても人に恵まれていたと思います。
一方で家にはもはや私の居場所はありませんでした。
家族との会話はほぼ0に等しく食事も家族とは別で摂るようになっていました。
中学卒業と同時に音楽室は使えなくなり、私の日常からピアノが消えました。
それでも当時これだけが心の支えだった私は、何とかまたピアノを弾きたい、
いつか将来は音楽関係の仕事をしたいと夢を持つようになりました。
中学の間、私の頭の中はどうやって家を出るかということでいっぱいでした。
当時私はとにかく早くここから出なければ、
自分の人生がだめになってしまうと思っていたのです。
何とかして、ここから脱出しなくては。
そしてその為にはお金が必要。
自分の力でそのお金を用意しなきゃいけない。
ならまずバイトしよう。
一度も授業には出ないまま中学を卒業し、
高校は通信制の高校を選択しました。
登校は日曜のみ。
授業はあるものの、基本的には自分で各教科のレポートに取り組み、
テストを受けて単位を取得する形式の学校です。
ろくに学校に行かなかったために学力を考えると、
そもそも普通の全日制の学校に行くこと自体難しかったのですが、
加えて平日は自由になるためバイトができるということと、
学費が安く年間で教科書代を含めても2~3万円程度で済み、
自分のバイト代から賄えるのも魅力でした。
高校生になってすぐ知人の紹介で飲食店で皿洗いのバイトを始めるものの、
人生で初めてのバイトで労働条件などにも無頓着で世間知らずだった私は同時の700円にも
満たない最低賃金で話を受けてしまいます。
結果お昼時の忙しい2時間か3時間の間だけ使われて暇になったら帰され、
一日に稼げる金額は2000円程度。
交通費を払ったらほとんど残らない上、
ゴム手袋なしで洗い物をし続けた私の手はボロボロになり、
指の全関節がパックリ割れてまっすぐ指が伸ばせない状態になっていました。
お金を貯めることが目的だという点でも意味がないと思い、
結局1カ月余りでそのバイトを辞めました。
次に始めたバイトは地元の有名な製薬メーカーの工場でのライン作業。
従業員の半分以上は自分の母親や祖母と同年代の女性達でしたが、
気が強く高圧的な人が多い中、引っ込み思案で愛想のない私はあっという間にまたいじめの標的になります。
当時15歳でした。
世間知らずな私は大人はいじめなんてしないだろうなんて思っていたのですが、
実際には大人の方がより陰湿で容赦がないことを知りましたね^^;
辛くて毎日家に帰っては庭先でひとりで何時間も泣いていました。
家に帰っても自分の居場所はない、かといって他に行く場所もない。
よくグレなかったねと言われることがありますが、
グレようにも私には一緒につるむ友達がいなかったのでどうしようもなかったのです。
非行に走ってもそれは自分の人生をいい方向には変えてくれないと思っていたのもありますが、一切味方がいない中で毎日ただ耐えていた日々は本当に辛かったです。
毎日朝5時に起床して歩いて工場に向かう朝。
当時私は姉同室で襖一枚隔てた隣の部屋が兄と弟の部屋になっていました。
当時既に彼らとも一切会話はなかったですが、
私以外の3人が昼夜逆転生活で深夜まで襖1枚隔てた部屋で騒いでいたおかげで、
私は一日によくて2~3時間程度しか眠ることができず、
完全に寝不足のまま毎日仕事に行っていました。
職場ではいじめられ毎日萎縮し、家に帰っても安らぎはない。
そんな状態で身体がもつわけはなく、あっという間に体調を崩し、
鬱と自律神経失調症でその工場も結局短期間で辞めることになります。
その後また次のバイトを始めるまで体調を回復させるのに半年かかり、
その間は週に1度の高校に行くだけの日々でした。
その後次に病院での清掃のバイトをはじめます。
当時高校生の時給と言えば700円~750円程度だったところ、
時給は1000円だったので高時給だと言えるのではないでしょうか。
結果このバイトは3年近く続けました。
腰は痛めましたが、とにかく目標を達成することにのみ集中し、
ストレスに耐えるため意識的に感情を殺しながら生きていました。
そうして働き始めてから1年で約140万円程貯めました。
このお金で私は中古でピアノを購入し、
そのピアノを設置するために賃貸物件を借りました。
当時17歳でした。
賃貸物件の契約は当然未成年のみではできないので親を説得する必要はありましたが、
こうして自分だけのシェルターを作ることに成功しました。
バイトと学校の後は必ずここに立ち寄る様になり、
次第に家に帰るのは夜遅くになっていきます。
やっと自分のピアノと、誰にも邪魔されない自分だけの居場所を手に入れました。
しかし中学を卒業してからここまでの間で私はほとんどピアノには触れていません。
時々知り合いの家のピアノを貸してもらうことはありましたが、
1日サボれば3日分後退すると言われる世界で、
私は余りにも長い間ピアノから離れていました。
幼少期から長くピアノを続けていた人ならまた違うかもしれませんが、
私は人よりずっと遅く始めた身です。
やっと自分だけのピアノを手に入れたところで私はほとんどもう弾けなくなっていました。
感覚がもう思い出せないのです。
親友だと思っていた相手が疎遠になった結果、
久しぶりに再会したら他人のようになっていたような感じというのでしょうか。
当然といえば当然なのですが、私は自分にショックを受け、焦りました。
何とか以前の感覚を取り戻そうと、バイトと学業の合間に練習を再開。
しかし結局以前の感覚は戻らず、自分の心を殺しながら脇目も振らず働き続け、
やっと念願のピアノを手に入れたところで私は燃え尽きてしまったのです。
それでもそれを認めたくない私はその事実には目を向けず、
未だに将来は音楽に携わる仕事に就きたいと考えていました。
この時点でもう色々と無理が生じていたと思います。
私は一度これだと思うとそれしか見えなくなってしまう質で、
当時はもうそれ以外は考えられなくなっていたのです。
当時の私は視野が狭く、頑固で、
しかしやたら行動力だけはあったのがむしろ仇となったように思います。
何か目標を持ち、そのために行動し続けていないと不安になるようにもなっていました。
例えそれが闇雲にでも、後に方向が間違っていたと気が付いても、
その時は何か行動し続けていないと、
現実の真っ暗闇に飲み込まれてしまいそうで怖かったのです。
下手くそな泳ぎ方でも、とにかく足をバタつかせて溺れないようにすることに必死でした。
ろくに弾けなくなっていたにも関わらず、往生際悪く音楽への道を諦められなかった私は、
それでも専門学校に行って本格的に勉強することを夢見ていました。
もっとちゃんと勉強して、指導を受けながら練習すれば、なんとかなる・・・・。
すがるように、そんな風に思っていました。
しかしアルバイトで得られる月の収入は約13万円程度。
その学費の工面を両親に頼むことは元々選択肢にはありませんでした。
家族との関係がもし良好だったとしても、
うちの経済状況がぎりぎりだったことは知っていたので、
やはり頼むことはできなかったでしょう。
そこで私はより多くのお金を稼ぐために夜の世界に飛び込むことを決めます。
きっかけは駅のロータリーで夜職の求人誌を渡されたことでした。
なんて短絡的で浅はかなんだと思われるかもしれません。
当時の私はろくに化粧もしたことがなく、男性とお付き合いしたこともありませんでした。
そんな私が見ず知らずの男性とまともに会話できるのか、
夜の飲み屋なんて危険じゃないか、抵抗は勿論ありました。
ただこの時の私にとっては目標を達成することが何よりも大事で、
そのためなら手段を選ばないようになっていました。
しかし結果としてこの判断は私を転落させていくことになります。
慣れない化粧をし、生まれて初めてヒールのある靴を履き、
今まで見たことも触れたこともない華やかな世界に私は足を踏み入れました。
今まで長くまともに接していなかった同世代の女の子達の中で私は浮いていました。
何とか雑誌を見ながら化粧をしてみても全く垢ぬけず口下手で挙動不審な私は笑い物で、
堅く生真面目で要領の悪い私はお店の中で異質な存在でした。
生来の内気で口下手な性格故、場に慣れることができず私はいつも萎縮していました。
性に合わないことを無理をしてやっていたせいかストレスで毎日吐きながら働いていました。
一時期なぜか毎晩深夜2時半になると全身に蕁麻疹が出るという謎の現象も起きていました。
私は劣等生でしたが、それでも時が経てば周りの女の子達と少しずつ仲良くなり、
段々とその場には馴染めるようになりました。
それと同時に今まで知らなかった世界を知ったことでここから私は堕落していきます。
私の目的は専門学校の学費を貯める事でした。
この頃私は夜から早朝まで働き、週末は学校に行き、合間にレポートをこなし、
ピアノの練習をし、時には早朝バイト後にほとんど眠らないまま学校へ行くなんて無茶苦茶な生活をしていました。
最初のうちは遅くなっても家に帰っていましたが、
次第に家にはほとんど帰らなくなり、それでもピアノの練習は何とか続け、
個人レッスンを受けたり行きたい専門学校のワークショップやジャズクラブのジャムセッションにも勇気を出して参加したりしていました。
しかしその度に思い知らされるのは、自分には才能がないということでした。
自分ひとりで練習しているときは弾けるのに、人前になると萎縮してしまい、
指が強張りまともに弾くことができませんでした。
技術的な面でも自分には能力がありませんでした。
恐らく自分でももっと早い段階で、どこかで気が付いていたのではないかと思います。
ただそれを認めたくなかったのです。
それを取ったら自分には何もなかったから。
だから往生際悪くしがみついていました。
結局スタートラインにも立たないところで私は音楽への道を諦めました。
以後長年に渡り、私にとってピアノは一種のトラウマのようになってしまいました。
音楽の道を諦め目標を失った私は、これからどう生きればいいのか、
どこに向かえばいいのか、何になればいいのか、
何もわからなくなってしまいました。
完全に人生の迷子になり、長い迷走が始まります。
この頃から私は常に何か目標がないと不安になるようになりました。
目標が何かあればそれを達成するために行動すればいい。
でも何もないとどうすればいいのかまるでわからないのです。
だから資格を取るため勉強したり、興味がある分野のスクールに通ってみたり、
どうにか新たな道を見つけようと必死でした。
音楽を諦めてからも暫くは夜の仕事を続けていました。
それは昼職よりもお給料が良いから、というよりも一度夜職を経験していたら
一般の企業では雇ってもらえないのではないかと後ろめたく思っていたせいでした。
目標を失ってポッカリ心に空いた穴を埋めるため、私はとにかく物を買い漁りました。
洋服に靴、バッグ、化粧品。
即席で得られる一時的な満足感で心の不安を和らげようとしていました。
少しでもマシな自分になりたい、笑われないようになりたくて、
心の隙間と足りない自尊心を埋め合わせるために、
自分を飾り立てることに夢中になっていました。
浪費に浪費を重ね、私はみるみる内に堕落していきました。
貯金することはなく、あったらあるだけお金を使いました。
元々私は自分に全く自信がありませんでした。
美しい容姿や卓越したコミュニケーション能力が物を言う夜の世界で、
私の劣等感や自己無価値観を一層強固なものになりました。
身体も心も病んでボロボロになっているのに、
自分を傷つけることが辞められず、長い間苦しむことになります。
私はいつも自分には何の価値もないと思っていました。
そのままの自分なんて価値がないし誰も必要としてくれない。
美しくも可愛くもない、才能も特別な能力もない、
頭がいいわけでもスポーツができるわけでもない。
何もない。
だから早く何かにならなければと必死でした。
でもいつまで経っても何にもなれない自分。
何も達成できない自分。
失敗ばかりのだめで惨めな自分。
誰にも必要とされない自分。
段々とそれまでの生き方に疲れてきてしまい、
いつしかもう頑張りたくないと思うようになりました。
もう何かを達成しようと努力することも、
幸せになろうとすることにも自分で嫌気がさしてきていました。
人生に対して投げやりになり、もうただ毎月食いつないで、
生活できればそれでいいや…と思うようになりました。
当時私は完全に病んでいました。
生活のためにとりあえず働きながらも、いつも自殺願望を抱いていました。
人生に喜びを感じたことがなかった私には、人生はただ途方もなく長く苦しいだけでした。
幸い実行する勇気はなかったですが、苦しいことには変わりなく、
生きる意味を見失っていました。
その後夜職を辞めた私は、詳しい経歴を書かなくても登録できる派遣会社に登録しました。
単発の仕事も含めると、倉庫での仕分けや棚卸、
ホテルの皿洗いやガラスメーカーでの梱包や出荷管理、
食品工場など様々な仕事を経験しました。
派遣社員として同じ会社に勤められるのは3年までと法律で決まっていますが、
その中で最も長く働いたのが食品工場での検品と出荷作業、
製造補助の仕事でほぼ満期で3年近く勤めていました。
その会社では年末年始が最も忙しく、
工場は基本的に日勤帯と夜勤帯でほぼ24時間稼働していました。
私が入社したのがちょうど12月の年末で、日勤希望で入ったものの、
会社側には人手が足りない夜勤に入るよう頼まれました。
時給は1200円で、夜勤であれば1.25倍で約1400円です。
時給もその分上がるし、忙しさが落ち着けば徐々に日勤になるようにすると
言われたので私はその条件を呑み、夜勤としてスタートしました。
通勤時間は1時間半。
朝4時に起きて始発に乗って通勤していました。
年末年始を抜ければ日勤になれるはずが、
実際には年が明けても忙しさは変わらず夜勤のまま。
少しずらして昼から終電までの勤務になりかけても、
人手不足でこの日は夜から来てほしいと頼まれ結局また夜勤に戻る。
途中から私の勤務時間は、この日は昼から、この日は夜からとバラバラになっていきました。
普段が夜勤にも関わらず、突然この日は日勤帯に人が足りないから
朝から来てくれと言われ3日間だけ日勤で働いたこともあります。
1日休みをはさんでからではあったものの、急には身体のリズムを変えることができず、
結局一睡もしないまま出勤しました。
そしてその後はまた夜勤に逆戻り。
私は都合のいい存在で、いいように使われるようになっていました。
少々無理な要求をしても逆らわない、便利な奴隷です。
周りの従業員を見ていても、ここが所謂ブラック企業なのだと徐々に気が付き始めました。
社員は当たり前に1日15時間労働、パートの女性達ですら10時間超えは珍しくありませんでした。
しかしそこにはただ労働時間が長いという問題以外に賃金の安さが影響していたのです。
賃金があまりにも安いから、時間数で稼ぐしかない。
ブラックだけど、一応残業代は出るので残業代で稼ぐ。
残業ありきの給料。
だから身体がきつくても、むしろ残業をしたがる人が多くいました。
私は外部の派遣会社から来ていたので週5日勤務でしたが、
直接雇用の従業員は週6日勤務です。
1日15時間労働×週6日。休みの日は一日寝て終わり。
こんな生活に満足してる人なんているはずがありません。
それでも生活があるから働かなければいけない現実。
この会社には外国人労働者も多く、
彼らの大半は故郷にいる家族にお金を送るために必死で働いていました。
外国人労働者は日本人の従業員よりも賃金が安く、800円程度の時給です。
それでも故郷の家族のためという思いで彼らは働き続け、
残業は毎日取り合いになっていました。
楽しみはギャンブルとスマホゲーム。
喫煙所に溜まっては愚痴の言い合い、いかに自分の方が大変かを競うように言い合う。
休みを取れば白い目で見られ、使えないままの有給休暇がたまっていく。
しかもこの有給休暇は、後に会社が経営破綻し、
別の会社に吸収合併されて経営者が変わった際に全て没収されています。
この会社は家族経営の会社でした。
社内に社長の息子や孫を始め親類がおり、
挙句の果てには社長の愛人まで事務職で働いている異様な会社でした。
そうなれば当然親族は特別待遇で、
ほとんど仕事をしていなくても他の従業員よりも多い給料をもらい、
通勤はタクシーでタクシー代は経費で落とす。
一方で末端の従業員はまともに睡眠時間も取れないまま働き通しで、
いつ誰が過労死してもおかしくないような体制でした。
それでも辞めたらまた違う職場で一から仕事を覚えないといけないし、
時給は悪くなかったのでなんとか続けていました。
しかしそんな時、同じ派遣会社から派遣されている女性従業員から目を付けられ、
彼女からの2年以上に渡る執拗な嫌がらせ、いじめが始まります。
私を社内で孤立させることに情熱を注いでいた彼女の頑張りにより(?)、
ある人は態度を変え、ある人は事実を知っていたものの、
巻き込まれたくないため助けてくれる人はいませんでした。
私自身は全く気にしていないフリをして、気丈に振る舞い、
ただ自分がするべき職務を全うしようとしていました。
しかし心と身体は繋がっています。
心が必死に耐えようとしても、身体は正直なものです。
めちゃくちゃな勤務スケジュールや、慢性的な睡眠不足、
劣悪な環境での長時間労働による過労、
そして粗悪な人間関係による過度のストレスによって、
私は精神的にも肉体的にも限界を迎えることになります。
私は子供の頃、アトピー性皮膚炎を患っていました。
しかし成長とともに自然に治まり、
大人になってからは湿疹や痒みで苦しむことはなくなっていました。
それがここに来て再発し、しかも子供の頃よりも重症化し、
全身に広がってしまうことになります。
腕も、脚も、首も、顔も、全身が真っ赤にただれて酷い有様になりました。
一番厄介なのは顔に出てしまうことで、人から見られるのがとにかく嫌で、
いつも俯きながら過ごすようになっていました。
これまで十分に身体を休ませず酷使し続け、
精神的にも我慢をし続けた“ツケ”が来たのだと思います。
それでも働かないと給料がもらえない。
許可を貰って休みを取らないと病院にも行けない。
このアトピーの大爆発はとりあえず強いステロイド剤で抑え込むことで鎮め、
2,3日休みを貰った後、再び仕事に復帰しました。
しかしその原因となった元の、人間関係や労働環境などが改善されたわけではありません。
その後私の身体は「もうこれ以上無理」というお知らせのごとく、
に強制ストップをかけます。
ある金曜日の夜、次の日が休みだということもあり私は友人と外で食事をしていました。
その時突然、激しい動悸に襲われます。
心臓が破裂するのではないかという程脈が早くなり、
目の前は暗くなり、周りの音が遠くなる。
何が起きているのかわからないまま、少し横になったら治まりましたが、
さすがに心配で友人の勧めもあり翌週病院に行きました。
しかし何科に行けばいいのか、そもそもこの症状の正体が何なのかわからず、
一番大きな症状が動悸だったのでとりあえず心臓内科へ。
しかしエコー検査をしても、心電図検査をしても、
年齢的に考えても心臓に以上が出る年齢ではないので異常なし。
個人的にはこの時不整脈を疑っていましたが、
脈を測定しても確かに若干不整脈があるものの病気という程ではないと告げられる。
しかし待合室で待っている間にもまた発作が起こり、
座っていることすらできない状態でした。
その後何度か通院するも原因がわからないまま。
一応動悸を抑える薬を貰いました。
あまり何度も仕事を休んで居られないので、
とりあえず仕事には復帰。
ところがある日の勤務中のことです。
いつも通り自分の持ち場で仕事をしていると、
発作が起きる手前のなんかちょっと変かも?な感じが起き、
近くにいた同僚に声をかけて休憩をもらいました。
水分補給をして心を落ち着け、もう大丈夫だろうと思いその後また仕事に戻る。
しかし持ち場に戻って数分後、これまでない程激しい発作に襲われ、
立っていることすら出来なくなります。
助けを求めようにも呼吸困難でまともに話すことができず、
やっとのことで体調が悪いと伝えてまた交代してもらいました。
その間フライヤーからは製品がぼとぼと地面に落ち続けてめちゃくちゃな状態。
現場には監視カメラもありますが、もうそんなことを気にしている余裕はありませんでした。
交代してもらい、あまり人のいない現場の後ろの方に行って発作が治まるのを待とうと
思いましたが、その時にはもう自力で普通に歩くこともできなくなっていました。
歩くことも、立つこともできない。
心臓が破裂しそうなくらい脈が速くなり、喉元と胸部が強く圧迫され、
窒息してしまいそうな恐怖で動けない。
しばらくフライヤーのすぐ後ろで、しゃがんでうずくまっていました。
ここで私がこの会社の異常さを感じたことがもうひとつあります。
動くことができずうずくまっている私に同僚達が発した言葉は、
「○○さんもうできないの?」「さあ?もう駄目なんじゃない?」
こんな感じでした。
救護もしないし心配もしてない、他人事です。
その後私は立ち上がることができなかったため、
這うようにして何とか移動しました。
しかし何とか現場の後ろまで移動したところで力尽き、
コンクリートの地面に倒れました。
倒れたといってもかろうじてまだ意識はあったのですが・・・。
近くで作業していた別の従業員が何か言っているけど、
もはや彼女がなにを言っているのかも聞こえませんでした。
結局彼女が別の従業員に責任者を呼ぶよう伝え、
その後やっと責任者がかけつけ、その責任者が事務所まで行き、
専務に事の次第を伝え、やっとのことで救急車が呼ばれ、
私は生まれて初めて救急搬送されました。
その間にも同僚たちが代わる代わる私の様子を見に来ましたが、
心配しているというよりただの野次馬で、
顔面蒼白で動けない私を指して何故か笑っている者もいました。
救急隊が到着し、私は救急車に乗せられ近くの病院に運ばれました。
少し前から同様の症状があり通院していているものの、
未だ原因が判明していないことを医師に伝え、
かかりつけの病院があるならそちらに任せるということになり、
結局点滴だけ受けて帰宅することになりました。
派遣会社とも相談し、大事をとって1週間休みを取ることになりました。
しかしその後復帰するも、現場に行っただけでまた発作が起こり、
まともに仕事ができない状態でした。
復帰して数日後の夕方のことです。
会社の上層部から今度また社内で倒れられたら労災認定しないといけないから、
医師から仕事をしても問題ないという診断書が出ない限り出勤しないでくれと告げられ、
定時の30分前にもう退社するように指示をされます。
しかしこの時点でまだ原因自体わかっていないので、
診断書もなにもないわけです。
会社が気にしているのはとにかく労災認定したくない、
ということだけのようでした。
あとから聞いた話ですが、私が倒れた日の数日前にも、
他に2人現場で怪我をして労災認定されており、
その日の朝の会議で社長から絶対にもう労災を出すなという指令が出ていたそうです。
会社にとっては従業員の健康や安全よりも、
労災認定を免れることが重要だということですね。
そうして私は出勤停止になりましたが、それは事実上のクビを意味します。
結局私は残っていた有給休暇を消化した後退職し、
以後約1年半の間傷病手当金に頼り生活していくことになります。
退職が決まってから病院を変え、別の病院を受診しましたが、
そこでもまだ原因がわからず。
医師からはこれだけ検査をしても異常が見つからないなら、
原因は心因性である可能性が高いと告げられ、
別の病院の精神科を紹介されました。
そしてその紹介先の病院を受診した結果、
やっとこれがパニック障害という病気だということを知りました。
治療を開始した後もしばらくの間は電車やバスに乗れず、
エレベーターなどの逃げ場のない密室空間や、
人の多い場所には恐怖を感じてしまい、
発作が起きるかもしれないという不安に苦しみました。
しかし薬の量を調整することにより次第に発作は起こらなくなり、
実は今でも3カ月に一度通院していますが、ほとんど発作は起こさなくなりました。
ただ今でも寝不足のまま仕事に行ったりすると軽い発作が起きるので、
完治する日が来るのかは不明です。
肉体的にも精神的にも、私は長い間自分に過酷な生活を強いてきました。
その結果がこの病気だと思います。
もうこれ以上は耐え続けられないと判断した私の心と身体が、
私を守るために強制ストップをかけたのだと思います。
私は休養を経て、社会復帰をして実はまだ1年も経っていません。
現在はまた、派遣社員として週6日働く日々を送っています。
入社前に聞いていた話とは色々違い、蓋を開けたらまたブラックでしたが^^;
それでも以前のようなめちゃくちゃな勤務スケジュールや、
10時間を越える長時間労働ではないのでなんとかこうしてブログを書くことができています。
読んでいただいてわかる通り、私はこれまで経験してきた職場で
ほぼ毎回ストレスや過労により体調を崩したり怪我をしたことにより退職してきています。
嫌でも自分が毎回同じパターンを繰り返し続けていることに気が付きます。
え、ずっと同じ現象ループしてる?
もしかして、また次も同じことになる?
生きていくために仕事をしながら、どうして私はいつもこうなんだろう?
どうして毎回同じ結果になるのだろう?と悩みました。
どこにいっても虐められるのは、私にも何かしら原因があり、
自ら引き寄せているのかな?とも思います。
そもそも私は集団の中で働くこと自体が向いていないのかもしれない・・・
とも思うようになりました。
要は社会不適合者です。
文章を書くのは好きなので(上手いかは別として)、家でひとりで文章を書いて、
それでお金がもらえたらいいのになあとぼんやり思うことはありました。
人と関わることに疲れてしまうなら、
ひとりで作業する仕事をすればいいとは思っていましたが、
文章を書く仕事の経験も実績もない私が今から目指すのは現実的ではないのではないかと思っていました。
これまでは新しい職場で勤める度に人間関係に悩み、
劣悪な環境での長時間労働やストレスで身体を壊し、
ちょっと休んでとりあえずは回復したところで、
復帰したと思ったらまた同じことの繰り返しでした。
もうこれ以上同じように働き続けるのって無理じゃないか・・・?
私の人生は一体何なのだろう?
一生こんな生活が続くの?
この先何十年、定年を迎えても年金だけじゃ生活できないし、
シルバー人材派遣に登録して死ぬまで身体を酷使して働き続けるのか?
私のこれまでの人生は、9割が仕事でした。
その仕事のために、決して多くない給料のために病気になり、
心も壊れ、ボロボロの生き方をしてきました。
学歴も、立派な経歴も、人脈も何もありません。
継ぎはぎだらけの人生です。
人生を変えたいと何度も思い、模索して闇雲に行動していつも失敗に終わりました。
ただそれはあくまで人に雇われる範囲内でしか考えていなかったからなのです。
どうすればそんな現状から脱け出せるのか?
自宅や好きな場所でひとり、人間関係に悩まされることもなく自由に仕事ができたら・・・。
それでお金を稼げたら・・・。
そんなことを考えながらインターネットで検索してたどり着いたのがアフィリエイトでした。
アフィリエイトという言葉自体は知ってはいましたが、
詳しくは知らなかったのでリサーチから始まりました。
最初は私も多くの人と同じく、ちょっと胡散臭いんじゃないか?
詐欺じゃないの?本当にこれで稼げるの?と疑っていました。
しかし実際、事実としてアフィリエイトでお金を稼ぎ、
何にも誰にも縛られることなく自由に生きている人達がいることを知ったのです。
私もこの人たちのようになりたい、
でも本当になれるだろうか・・・と勿論不安に思いました。
でも知れば知るほど、
私のような人間がこの先生きていくためにはアフィリエイトしかない
と思うようになったのです。
宝くじがいつか当たるかもしれないと夢見るよりも、
自分自身で稼ぐスキルを身に着けて、自力で現実を変えていくほうが遥かに早いです。
勿論アフィリエイトも決して楽な道ではありません。
この世に誰でも楽して努力なしで稼げる商売なんて存在しません。
私はこれまで人生を変えたいと何度も強く願い、
自分ができる範囲で行動してきました。
その度に失敗して項垂れ、
自分は結局何も成しえないのかと失望しました。
時間もエネルギーも全て会社に奪い取られ、貰えるのは月に15万円程度。
時給制だから、休みたくても休んだらその分減ってしまうのが怖くて休めない。
私は一体誰のために、何のために生きているのか?
このままじゃ自分の人生はただ身を粉にして毎日働いて、
あげく病気になって、また働くだけで終わっていってしまう。
そのことにとても恐怖を感じたのです。
何が何でも人生を変えなくちゃならない。
そのために今、決断しなくちゃいけない。
あともう一回くらい、人生のために自分のために必死になってみよう。
そうして私は自分でインターネットビジネスを始めることを決めました。
P.S.
以上が私の経歴です。
これでもだいぶ色々と省略したのですが、かなり長くなってしまいましたね^^;
私のこれまでの人生は、人に自慢できるような経歴はありません。
ある意味普通とはちょっと違う過去を持っていますが、御覧の通り人生ボロボロです(笑)。
どこに行ってもいじめられて、失敗ばかりの落ちこぼれ人生です。
ずっと生きづらさを感じながら生きてきましたが、
どうも私は生きるのが下手くそなのかもしれません。
それでも幸い今では苦しいだけの人生ではなくなりました。
私の事を理解し、認めてくれる本当の友人やパートナーもおり、
自分を卑下することもなくなりました。
病気とはまだ闘っていますが、今は未来が楽しみになっています。
本当はここに書ききれなかった事柄も多くあるのですが、
全部書いたら多分引かれてしまうのと思うので省略しました^^;
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました^^